神の存在を感じる習慣とは、神の意識に近づくのに最も簡単で、迅速で、確かな方法です。常に、どこにいても彼の存在を感じてください。花、木、犬、馬、人間、星、太陽、そして5個の要素(土、水、火、風、空間)など、全てのなかに。彼の慈悲により、あなたが考え、感じ、熟考し、知り、願い、話し、書き、そして歩くことを感じて。全ての行動の中に彼の存在を感じて。全てのものとあなたの存在との調和を感じて。彼の存在を感じるために、あなたは失敗したり忘れたりして、悲しみ、落ち込んでいる。
彼は決して話したり、微笑んだりしないが、彼の存在は十分に足りている。私は常に楽しみ、至福、知識、不滅な彼の存在の中にいる。このようなサーダナは、やがて属性や実体のないブラフマン(普遍な存在)の中で静止させる。
どこにいても、全てにおいて常に彼の存在を感じるときは、いい考え、悪い考え、性的な考えは、全て消滅する。
そのとき全ての食物はサットヴィックで神聖なものにかわる。
あなたが子供たちの間にいるとき、子供たちと一つであると感じなさい。
あなたが女性に囲まれているとき、彼女たちと一つになりなさい。
あなたが石の上に座るとき、石と一つになりなさい。
これは宇宙と一体化することです。全てが優れたもので全てが神聖なものである、なぜなら全ての中にシヴァ神が存在するから。
この習慣はあなたに調和の至福、‘全て’における至福を与える。
本物の象と、木で作られた象のおもちゃがあるとき、そのおもちゃの象は‘木’の中に隠れている。
しかし、これらの名前と形はそれらの背後にある本当のブラフマンを隠している。
始まりのない、根深い精神の中の幻想を取り除きなさい。
象のおもちゃはただの木であり、象ではない。
これは世界ではなく、ブラフマンなのである。肉体ではなくアートマンなのである。
象、世界、肉体という名の間違いを脱ぎ捨て、その本質を受け止めて。
二元性(精神と存在が分かれていること)は精神のごく自然なことである。一貫性(すべてが一つであるということ)の点から考えることはできない。
その一貫性のためには、熟練された精神の純粋性の経験が必要とされる。
土(粘土)は3つの段階(過去世、現世、来世のこと)からなる現実にすぎない。陶器の鍋は作られたものである。
Channdogya Upanishadは言いました。
「‘土(粘土)’だけが真実である。壷や鍋などへ変化した状態は、ただの装飾品や置物と名づけられただけである。」(つぼ、鍋は土の集合体であるということ)
同様にブラフマン(存在)のみが真実である。始まりも、終わりも、変化もない永遠の物質である。
体、精神、感覚、そして世界の変化は完全に偽りのものである。名づけられたものの中にいるだけです。
全ての陶器の中の粘土を見るように、全ての物体のなかにアートマンを見て。
牛たちは一頭一頭違うものである。牛は、色や様々な点で異なる。しかし、彼らから得られる牛乳は同じものである。人間は、文化や、礼儀や、服装の型や、食文化を取り去れば、世界中で同じである。情熱や感情は世界中で同一である。言語は様々な国や地域で違うが、言葉の奥の考えは同じである。これは多様性や二元性の背後にある単一性(唯一つのものであるということ)である。
深い眠りの中に‘一つ’の感覚、真髄がある。全てが似たようなものであり、眠りの中に複数のものはない。
同様に、物体のなかには一つの同じ性質を持った物質がある。これがアートマンである。
これが本当のあなたです。
ココナッツはただの糖分である。ココナッツは傷、汚れ、皮、隆起、目など全てを持っている。
あなたは精神の内側の感覚を持っているが、それはちょうどココナッツでいう、糖分である。同様に、全世界で見た物体でさえも、全てのものの根底にアートマンがあるということ、そしてそれが全ての究極の真実と本質であるという感覚を持たなければならない。
なぜあなたはマンゴーの木の中に葉や枝、鼻、果実を調べるのか。
起源、種を調べなさい。
布はただの綿であり糸である、布を綿としてとらえなさい。
同様な方法で世界をアートマンとして捉えなさい。
あなたが人や物をみるとき彼またはナラヤナ神(存在を形として名づけたもの)を考え、感じなさい。その名前を絶え間なく考えることによって、姿かたちは消えてなくなる。アートマン、それだけで光り輝くだろう。世界の考えは消えてなくなる。それは長い時間がかかる。熱心な努力を必要とする。あなたはどこにいても、アートマン、ナラヤナ神を見て感じるだろう。その練習の間、あなたの中の古い印象(サンスカーラのこと)はあなたを悩ませるだろう。それらはあなたの本当の敵である。本当の敵としっかりと戦いなさい。これはどこにいても、すべてを平等に見るための訓練である。そのうちあなたはアートマンの中で全ての物を変換させるだろう。全ての行動がアートマンへの尊敬の念であるとして考え、そして感じなさい。そのとき劣等感と卑屈な行為は消え、ナラヤナ神がどこでも見えるようになるでしょう。